Sep. 30, 2001 名古屋レインボーカップ総括
男子25−29歳 50m平泳ぎ   33”68 7位
男子25−29歳100m平泳ぎ 1’16”31 8位
名古屋入りは金曜の夜、今回は佐用から中国道へ乗り、名阪一直線のコース。これが予想以上にスッポリ速かった。約5時間で名古屋駅前に出ることが出来た。
さて昨日の土曜日は50mの平泳ぎに出場した訳であるが、待ちました、ホント。JR笠寺駅を降りてレインボープールへ入ったのが午前10時、そして午後6時頃のレースまで、ひたすら待った。何が辛いかって、50mの自由形は男女総計200組近くがエントリーされていて、延々とレースは続くのである。観客席にいるのも本音としては飽きてくるのである。他のメンバーが間に参加することもあり、しゅっぽりこの雰囲気から去る事も考えないので、ひたすらレースを観戦し、息抜きに本をめくって、PHSでレース状況を鳥取へ送信したり、そうして耐えた。
午前中の内に軽く500m程アップをした。とりあえず身体を強制的に眠りから覚ます意だが、その日のコンディションを占う重要なアップでもある。今週の練習の通り、腰は痛くない。他の部分で気になる点も特に無い。身体自体は調子の良い部類に入ると推察した。ただ50mプールに対する気持ちとしては、長いな、と感じた。これは精神的には良いものではない。ま、いずれにせよ準備不十分の中、経験できるだけ良いとする場なので、精神的部類に関しては特に気にしない。
午後に入って一層時間はまったりと停滞していた。15時半に至って、いよいよ眠気も最高潮に達したので、2回目のアップへとサブプールへ向かう。500m軽くダウンスイム。はふー、これだけで何か疲れちゃうよ。50m平泳ぎは男女計100組弱。男子の45組目だからほぼ最後だ。しかし以外と早く順番が回ってきた気がする。自由形が長過ぎたな。
32秒台が出れば6位入賞(メダルがもらえる!)が見えてくる。うむ、欲深さは消えないなぁ。目の前に人参がぶら下がれば、どんな調子でも「とりあえず」走ってみたくなるものよ。
8コース、この端のコースはマスターズを始めてから泳いだことの無いコースだった筈だ。片方の隣が居ないのは仕方ないとして、中央から離れていることが少し淋しい。泳いでいて、レースの様子をうかがい知るのが困難だからだ。そしてスターターは合図した。
「用意『ぴ!(オリンピックでよく聞く電子音)』」
マスターズの大会ではファウルスタートを防ぐ為に運営側も気を配っているようで、用意からドンまでの間は無いに等しく連続したものである。・・そして水中めがけて飛び出した。
(続く)
 
Sep. 27, 2001 明日の予定
今週のノルマは今日でほぼ片して、明日は午後3時には退社予定である(無論、早出する予定!融通がキクって事さ)。いやー、今週が谷間で本当に良かった。腰の調子も確実に快方に向かっているし、全体の調子は上向いてる。良い良い。
名古屋までは車。3人で交代しながら、ほどよく飛ばして行く予定っす。
・・ということで、更新はしばらくお休み。FTP出来るように設定してないので・・。掲示板には日記風にコメント書くかも。じゃ、みんなも良い週末を。(^^)/
 
Sep. 26, 2001 今日は泳がず
少々集中したい仕事もあり、今日は泳がず英会話もお休みして勤しんだ。
しかし一段落したこともあり、深夜に至る前に引き上げた。少し眠い。
社内では色々と考えさせられる事が起こるが、残念ながらここに書く事は出来ない。
 
さていよいよ今週末は「名古屋レインボーカップ」だ。南区にあるレインボープールで、土・日と大会がある。これまでで最も遠い遠征になるな。暇な方は、応援に来て下さい。(笑) 中原の出番は、土曜日が17:30に50m平泳ぎ。日曜日が10:30に100m平泳ぎです。時間は多少前後するかも。
 
Sep. 25, 2001 健康って、ホントにいいですね!心より・・
今日はマスターズの練習に、ほぼ10日振りに参加した。そして平泳ぎをしてみたら、泳げた!痛く無い!!
健康って、ホントにしゅばらしい!!・・と実感しました、今更ながら。身体は大切にしよう。そしたら何でもやりたいようにやれる。
予防・再発防止へ、さて、取り組むか。
 
Sep. 25, 2001 納品
上期末。仕事に一区切りつく瞬間がついにやって来た。そう、今日25日は、3ヶ月頑張って仕上がった成果物の納品日だった。今朝そのことで親父が一言「作品か。」・・この人鋭いね。ソフトは一種、作品ですね。はい。
連休明けという事もあり、気分は良過ぎるくらい良かった。こんなにイキイキしている自分も珍しい。仕事は結果こそ全てで、私は過程の小事に意固地にならない(悪くいえばこだわり無しで客観的にこなす)主義なので、結果、そう成果物が出来上がった事について嬉しいに違い無い。
そして悠々と定時退社(ああ、凄い響きだ。次はいつだ?!)しました。はい。とにかくめでたい!
 
Sep. 24, 2001 ついに立ち上がったのかWebサーバ!?
悶絶の内に朝の6時を迎えた。昨夜の作業は「.com」ドメインの購入とDynamicDNSとの名前解決の設定、ルータの設定、雑誌での学習で終わった。
根本的な問題は明らかに「知識不足」の一言に尽きるのだが、ハードもソフトも「何で!?!?」というほど言う事を聞いてくれない。不測の時間浪費に大いに悩まされた。ああ、もう書くのも面倒&憤慨なので端折るが、6時から14時まで休んで、そして意を決して作業を再開した。
ファイヤーウォールはルータのNATとフィルタでのみ、これで基本は外していない筈、という所までやっと設定出来たと思う。有識者の皆様、テストクラッキング、よろしくお願いします。 そして食指を伸ばしてBBSの開設。これもコメント部の改行デコードが「BRが2つ」になってしまうのをどうにかカスタマイズしたいとあれこれやったが力及ばず、テスト公開。
・・ともあれ、とりあえずこのMacはWebサーバとして立ち上がったかな・・。
 
Sep. 23, 2001 大河の一滴
映画「大河の一滴」を観て来た。最近少しかじっている五木寛之原作・原案、安田成美主演である。渡部篤郎も出ているので、これでモチベーションが高まった訳だが・・・。
物語としては何の変哲もない、ごく普通の風景が流れるのみのように思う。そこでこれをどう見るかと考えたが、原作を少し読んで、五木の考え方を念頭に置かないと難しいのかな、と思った。五木は「弱さ」を肯定していると僕は解釈しているが、その中で個々人が各々の真実をどう生きるか、という面が主題であると思っている。中で出てくる「手術の拒否」「自殺」「それぞれの愛」「平凡」、これらいずれも五木は否定すること無く、肯定していると言っても過言では無い。弱さ(暗黙の苦しみかな)という土台から各々が決した自らの真実についてそれを全うし、周囲もそれを見守る、という一貫した姿勢が感じられるのである。
物語は平凡であるが、それ故にこういう主題をのせられた時に感じるものがあるような気がする。
「泣くんやない、雪子。自分の信念に従って生きて行くんや。」
 
Sep. 22, 2001 この一週間、マイ生態
泥の様な一週間を過ごしていた。まあ、聞いてくれ。
先週の日曜日のバスケットボールで、ふと方向転換で逆向きに踏み出した瞬間、「!?」・・。そのパルスはかなり鈍くて違和感の域を出なかったが、確実に腰を傷めた。
翌朝、例によってうめき声が上がる。2週連続だよ。ああ。・・今回は本当に動けなくて、月曜の午前は「腰痛によりお休み」という虚脱極まる情けない事態となってしまった。
この腰痛、仕事も上期末期の佳境の中で耐えなければならなかった。更にADSLの開通も重なり、身体への負担は多方面から容赦なく降り掛かる結果であった。しかしプールの練習からは本当に遠ざかり、ひっそりと練習風景をジャグジーバスから眺めるのみであった。「大丈夫かいや?!」「大丈夫っすか!?」うん、みんな心配してくれて有難う。いくら水を得ていても、陸で調子コクと痛い目にあう。その学習だから、ジッと我慢してるよ。
金曜日になっても、椅子から立ち上がって腰がまっすぐにならず、いわゆるこれが「へっぴり腰」、という形態を未だ免れなかった。(続く)
 
Sep. 18, 2001 MacPerlでCGI
(http://swimmingoo.ath.cx/のお話。)
やっとカウンタが動いたよー。ふた晩かかったよー。(ToT)/
MacPerlをインストールして、とりあえずプログラムはフリーのモノを取って来て。Macのパスの記述法は何でこうなの?って感じで戸惑いながら、でも動いたよー。
んで1時間くらい、お気に入りのカウンタ画像を仕入れるのにうろついていた。(笑)
でも、Macのスペックのせい?処理遅くて表示なかなかしてくれない感じだけど。
 
Sep. 16, 2001 人事を尽くして開通を待つ
ADSL開通までに最後の週末、必要最低限の物品購入、最終章。ThinkPad用のLANカード、ルータからここまで15mのストレートケーブル、追加のOAタップ。 部屋に入った線はすでに設置しているスイッチングハブで分岐して、サーバもどきMacとThinkPadへ別れる。怠りは無い。そして夕刻、遂にNTTから「フレッツ接続ツール」が届いた。万事整った。木曜日よ、早く来い!! p(-o-)q
 
Sep. 15, 2001 Dynamic DNS
土曜日の深夜、何者にも干渉されない僕だけの自由時間。俗世の事々をしばし忘れて、ネットワークの設定(と言うほど仰々しいモノでも無いが・・)に勤しんでみた。
・・・いきなり話はそれるが、久方振りにPowerBookG3の電源を入れてみたら、「がちゃん、がちゃん、きゅるる!!」と世界が灰色になるような悲鳴を上げた。涙と怒りが込み上げて来たが、お亡くなりになったHDDは帰って来ない。おまけにバッテリーまで死んでいた。ごめんよお、こんな事になってしまって。
さてWebサーバをどのマシンにするかで少し考えた。出来れば68Kのマシンを現役復帰させたい。1993年に40万円でやって来たCentris610も、中古市場では現在2000円程度で出回っているらしい。サーバマシンとして第二の人生を歩んでいる仲間も少なからずあることだろう。しかしLANボードなど環境を整えるのに少々手間をかけなければならない。こいつに合う物を今更探そうと思うと、ちょっと大変なようだ。検索すれば簡単に出てくるかとタカをくくっていたが出て来やしない。仕方ない、やはりこのPowerMacG3/266にやってもらおう。
解説サイトを見ながら、ドメインの取得を行う。ホストネームはホームページに合わせて「swimmingoo」だよな、やっぱ。ちょっと長いけど。後ろに引っ付くサブドメインとやらは短い物を選んだ。「swimmingoo.ath.cx」。おお!俺のサイトだ!!という気分がいよいよ高まって来た。しかしDynamic DNSというサービス、ホント感謝モノですね。無料なんだけど、いくばくか寄付してもいいよな。
そしてMacでのIPアドレス自動更新ソフトのダウンロード。このサイトのDynamic DNSサービスに準拠している物をインストールした。うん、英語だけど設定もこれなら分かるよ。IDとパスワードとホスト名を入れて、更新の単位時間を設定するだけ。認識した!
そしていよいよ、このMacにあるホームページの情報を公開する。Web共有コントロールパネルでページのファイルを納めたフォルダを指定し、「公開」のボタンを押す。これだけ。いいのか、こんなに簡単で。
果たしてブラウザからアドレスを打ってエンターキーを押下!!! 出た!!!(/ToT)/(/ToT)/(/ToT)/
 
Sep. 14, 2001 ルータ到着
何と、ルータも今日届いてしまった。申し込み・振込みからまだ2日しか経っていない。ここ3日連続で依頼していたものが予定の納期より早く受け取りを完了出来て、「いい仕事してるなあ。」と感心しきりなのである。ま、運が良かっただけかも知れんけど。
さくまからDynamicDNSのアドバイスを受けて早速検索をかけて解説を読みふけったのだが、これはもしかしたら意外と容易にwebサーバだけなら立ち上げられるのではないか?!という気分になって来た。というのはMacOSにはOS標準で「Web共有」という機能が有って、簡単な設定で公開出来てしまうから。疑問・不明点は幾つか残っているんだけど、フレッツADSLが完全な常時接続を保障していなくてIPアドレスが変更になっても、、DynamicDNSの利用に際してこれを更新してくれるソフトも複数OSで出ているようなので、自動更新してくれるように設定出来れば、多少のタイムラグはあれ、簡易的な公開は途切れることなく可能なのでは?と思う。
さ、細かな仕組みについて、学習していこ。嗚呼、Macが蘇りますように・・(それがモチベーションだったりする(笑))。
 
Sep. 13, 2001 すず
amazon.comから本が届いた。1週間程度の納期予定であったものも含んで中3日で全て届いたので、ちょっと感心している。
今回買ったものの一つは、7月に出ていた筈の「すず」。ご存知、千葉すずの足跡をまとめたものだ。写真もふんだんに織り込まれていて、ファンとしては是非手元に置いておきたい一冊であると思う。概して彼女に対して一種の偏見で接してしまいがちだと思うのだが、読んでみて新たな一面も垣間見れると思う。
 
Sep. 13, 2001 休むことは落ちること
今日の練習で実感した。故障でちょうどいい休息期間になったかと思ったが、やはり身体は動きにくくなっていた。単純に休むことは充電ではなく自然放電であって、過去のレベルへすぐに落ちて行くことよ。一定の状態を維持するには、「維持」の為のそれなりの行動が必要だ。つまり完全に切ってしまうのではなくアイドリング状態で最低限の練習は欠く事が出来ないというのが結論だ。
 
Sep. 12, 2001 無題
一日中テロのその後の状況をを気にしながら、という感じだった。個人的には仕事の忙しさも手伝って冗談も言えないくらい暗澹たる気分だった。悲惨過ぎる。
ブロードバンドルータの購入を済ませた。昨夜ざっくり品定めして、価格コムから一番安い店で納期Aを確認して申し込み、今日銀行振込みをした。来週頭には来るだろう。
帰ってみたら、ADSLモデムとスプリッタ一式がもう届けられていた。対応速いぞ、NTT!
 
Sep. 11, 2001 テロ
疲れて帰って午前1時。テレビで凄いことになっていた。ショックだ。これじゃもう内から外から、何重にもへこみまくりだ。
とりあえず、その後の事も心配ですが、寝ます。(_ _)
 
Sep. 10, 2001 ADSL、9/20開通
遂に私も申し込みを行った。あれこれ悩んで時間ばかり浪費しても仕方が無いので、無難にフレッツADSLを選択した。一番環境の変化が少なく、作業は最小限だろう。
有識者・経験者の皆さん、困ってしまった場合にはどうかお助けを。m(_ _)m
 
Sep. 09, 2001 先週の総括
■ 第14回鳥取県マスターズ水泳競技大会(9/02)
25−29歳男子 50m平泳ぎ   33”44
25−29歳男子100m平泳ぎ 1’12”96
一週間前の県民体育大会で不満の残るレースをしてしまって、この大会は賭けるものがあった。というか、悪く言えば気負いまくっていた。
結論から言えば、私の50mはここ一年で全く記録が伸びていない。コンスタントに33秒台を出せるようになったものの、32秒の壁をどうしても越えることが出来ずに一年が過ぎ去った。近藤大輔曰く「全ての大会で全部やろうと思ったら大変っすよ。狙う大会だけやれればいいっすよ。この大会はここを確認するとか決めないと。全部は無理っす。」・・頭では大変よく分かる。一流の選手だって、全ての大会でいつもいつも日本記録を塗り替える訳ではない。フォームに改良を加える時はそれを確認するレースだってある筈だ。ただ自分の事となると、いつも自己記録を更新し続けなければ満足出来ないような、そんな意固地がどうしても出てきてしまう。ここに来て発想の転換が必要なようだ。じっくりやろう。
さてそれに引き換え、100mの記録は昨年から3秒近く伸びて、ついに12秒台へ突入した。これは50mが技術的な面でぶつかっているのに対して、継続の力が持久力に確実に反映されている結果と推察する。これは練習の「量」の面で、まだ泳げば泳ぐだけ伸ばして行ける可能性がある。
嗚呼、ストイック。

■ 選手コースでの練習(9/03)
昨日のレースの後の打ち上げで、当然ながら奮い立つ面々が決起した。「コーチ!選手コースで練習させて下さい!」現在所長の三宅コーチはマスターズの活動に非常に理解のある方で、私たちの要望や練習環境を可能な限り調整して下さる。ついにそのコーチへの甘えが度を越して、現役選手らの練習に混ぜてくれ、ということである。宴の席では「いいでしょう。」ということになったのだが・・。
選手コースは毎日18:30〜20:30の2時間、5000m程度の練習をこなしている。仕事の都合もさることながら、こんなことをやっていたら本当に死んでしまうので、後半1時間の部分参加という事になった。そしてその日のメニューは・・200×8(3’40)、100×6(2’20)・・。はぁ?!いきなり討死なのか?!生まれてこのかた200mを8本連続で泳いだ事などない。このメニューだけでいつものマスターズの練習量の1.5倍に相当する。・・4本目は本当にリタイヤなのかと思った。が、腕が規則正しく動くようになった。ペースが一定となり、息は上がらなくなった。規定のサイクル内で回れば良いことで、身体は瞬時にモードへ入った。腕の筋肉がパンパンに腫れ上がった。100mのメニューに入ってから足がつりそうになった。今思い返せば、レースを終えたその翌日にこのような負荷をかけるのは間違っていた。シーズンの疲れも、無論、毎日深夜までの残業も響いて身体は限界に近付いているようだった。

■ 故障(9/04)
火曜日はマスターズの練習日。昨日の練習はクロールがメインだったので、普段使わない筋肉はその練習中から筋肉痛に襲われた。この日の練習時に至っても筋肉痛はぐったりするくらい身体に残っていた。平泳ぎを泳ごうとすると身体の反応がおかしい。筋肉の動きがクロールに合っていて、平泳ぎがどうにもぎこちない。そして最後の25mダッシュの1本目、「!?」。背中、左肩の下辺りに違和感が出た。「あ、」と思ったその時には全く力が入らなかった。
あ、故障しちゃった。
背中の筋か。左手が上がらない。首が回せない、下を向きにくい。
「休め。」ってことか・・。

■ 激痛(9/05)
背中の痛みはいわゆる「寝違い」みたいな感じだ。一定の姿勢ではそれほどの苦痛は無いのだが・・。寝て起きてみての様子で今後が分かる気がした。引いていれば大したことは無い。可能性としては少しひどくなっていて全治1週間程度と覚悟していた。
朝方に激痛で目が覚めた。寝返りを打とうとして痛みが走る抜けた。「うぐ!」元の姿勢に戻した筈なのに痛みが消えない。一番楽である筈の仰向けになったが最後、「うがぁ!」痛い!しかし力が入らず他の姿勢にも移せない。移すにも更に大きな苦痛が。ちょっとしたパニックになった。やっとの思いで試みた姿勢でも耐えがたい痛みがあり、どの様な姿勢をとっても痛いのだ。「今日は会社を休まなければならないのか?!」本気でそう思わざるを得なかった。何とか横になった姿勢で寝付くことが出来て、残り数時間の睡眠を。
・・起きて動けなかった記憶と言えば、大学1年の時にスキーで右肩を脱臼した翌朝、ベッドに縛り付けられたような感覚に絶句した朝を思い出す。その次くらいの衝撃だった。
幸いにも2度目の目覚めでは痛みが少し引いていて、何とか日常生活には支障の無い程度になっていた。じっと無理せずに時間が経つのを待つしかないな。

■ 療養(9/06)
大人なので今自分がどうすべきかは冷静に考えることが出来ていると思う。無理する必要は全く無い時期であるのだから、早く治すことだけ考えよう。プールには気分転換で皆と話をする為に出向き、泳がずにジャグジーバスでのんびりお湯を楽しんだ。早く完全に治して、そしてまたじっくり泳ぎ込もう。

■ 物欲の秋(9/08)
結局は水泳ネタから離れられないことになるのだが・・、今日はついに14型のテレビデオを購入した。無論家の居間にもテレビがあるのだが、部屋的テレビ的に自由にならないことが多く、自分の部屋へ一台用意することにした。普段リアルタイムでテレビを見る事は少ない、というか出来ないので(休日など皆で一緒に見るものは居間ので良い)ので、別にアンテナを立てる必要は無く、必要なものだけ居間のビデオで録画させてもらったもの、また知人に借りたものを再生するだけのものである。ヤマダ電機で1万8千円。ま、これ位の投資は良いでしょう。思ったより小さいもので邪魔にならない。さ、日曜日に一気に消化しよう。有用な情報は積極的にビデオにとって、何とか見よう。
・・ああ、これで気兼ねなくオリンピックのビデオを何回も擦り切れるまで入ることが出来るぅぅぅ。(笑)


 
Sep. 08, 2001 再会
今日は171回目の献血へ行って来た。一通り所用を済ませ、駆け込みとなってしまって15時45分。はい、ラスト一名様。A型入りまーす!って感じだった。受付の人と眼が合って「あ。」と思わず声を出してしまった。「小林さん・・。」私は独りで勝手に、走馬灯を頭の中で回し始めてしまった。「??」な受付のお姉さんと看護婦さんの前でごそごそと不器用に献血手帳を取り出し、名刺を差し出すかのように私が誰であるかを伝える。「あ、中原さん!」・・そうです。中原です。
小林さんと初めて会ったのは高校2年生16歳の夏であった。献血とは何かを知り、そう健康でありながら看護婦さんに優しくしてもらえること、思春期としてはごく純粋なモチベーションで、今は亡き湖山の献血ルームへ足繁く通った頃だ。私はドナーであるから優しく接してもらえるだけのことなのだが、姉の居ない私には、当時23歳位だった筈の小林さんは「これがお姉さんというものなんだろうなあ。」と勘違いさせてくれる存在なのであった。声と眼が優しくて、温厚で、僕とも気さくに話をしてくれた。
その小林さんと再会した。
全然、と言えば嘘になってしまうが、変わっておられない。年齢はお互いに重ねてしまってはいる訳だが、私には雰囲気やその空気やらは懐かしく変わっていないものに感じた。
献血が済んで休憩している時に、お話しが出来た。ちょうど今日の日本海新聞にマスターズの試合結果が掲載されていたので、このネタを中心に私の近況を報告した。聞けばお子さんは産業体育館のプールを通われているようで、「サンフィッシュの方がいいのかなあ?」という問いに「どちらでもいいですよ。行きやすい方で。」と、どちらにも通ったことのある身としてアドバイスさせてもらった。「十数年ぶりかしら?」「いえ、そんなことは無いと思いますよ。一度お会いしている筈です。」確かに学生の時分であったか、一度お会いした記憶がある。ただその時の記憶が薄くなっていて、何か本当に十数年ぶりに再会した気がするだけだろう。
・・その、ある一つの環境とは、時間が凍結している錯覚に襲われることよ。変わらない空気、変わっている自分もそこへ立ち入る時にはその空気に感染していて、いつまでも変わらない素振りになっていることよ。16歳の俺。
 
Sep. 05, 2001 夜
夜に戻ってしまった。ジリ貧・・。
 
Sep. 01, 2001 ああ、
仕事。頭、ウニ。
俺に、もう少しだけ時間をくれ。少しでいいから。

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